どんなに敏感なアンテナがあっても、複雑な処理ができたとしても、答えを教えてくれないものに需要は無いという話

9月は自分の誕生月というだけで好きです。のくたん(@noxtan)です。
自分の誕生日や結婚式で自分が主役になるのは至極当然のことです。
そういったもの以外の場で、自分が「周囲から需要のある存在」だと感じるときほど、心が満たされ、人生が楽しく感じられる瞬間はないでしょう。
例えば、「お前がいなけりゃはじまらない!」なんてことを言われたときにゃ絶対鼻血出す自信があります。
今回は「アウトプット」と「需要」の関係について、自分なりに考えてみたことをまとめておきたいと思います。
インプット中心の生活になりやすい
普段、情報に敏感な人でもそうでない人でも、何かを見たり聞いたりして情報を取り入れていると思います。僕もよくRSSに登録したブログを読んだり、ネットのニュース等を見たりして頻繁に情報収集をしています。
ただ、そこで得た情報を何かに使ったり、誰かに教えたりすることは稀です。
つまり、システム屋っぽく言ってみると、「インプット」中心の生活をしています。
特に、仕事だったり、意識して情報発信をしているという人以外は、そういった人の方が多いのではないでしょうか。
それはそれで普通のことでしょうし、1人で生きていきていく上では何の問題もありません。
他人から求められるのはアウトプット
僕は普段、パソコンを使う仕事をしているのですが、そのことをそういった知識のあまりない友人知人に話すと、数日後、
「パソコンがうまく動かないんだけど、これってどうすればいいの?」(実話)とか、
「ノートパソコン欲しいんだけどどれ買えばいいの?」(実話)とか、
「結婚式の動画作って!」(実話)とか、
「今、数人で飲んでるから車出して!」(実話)とか、
なんて様々な依頼が舞い込んでくるわけです。
しかも、どこかから情報をつかんだのか、すっごい久しぶりの友人から電話が来たりもします。
そういう時、友達が多いと勘違いして嬉しくなり、ホイホイと車を出す自分を今年は変えたいと思っています。グスン
話が脱線しかけましたが、要は人から頼ってもらえるということはとても嬉しいわけです(最後のものは別として)。
こんな時、なんとか対応してあげたいとは思うのですが、いかんせん自分の知識の浅いことだったりすると、
普段集めている情報の中から思い出せたものを切れ端のように伝えて終わるのが関の山です。
の「そのサイトにこう書いてあるから、(うまく伝えられないし、よくわかんないから)それ見て頑張ってみて。」
友「うーん、(よくわからないけど)そっかーわかったよー。」
の「う、うん、あんま力になれなくてごめんねー」
友「いいよいいよ、聞いてくれてありがとー!(使えねーなこいつ)」
なんて会話で終わるのです。
恐らくこの友人知人は、この人に聞いても求めていた情報(アウトプット)は得られないと判断し、
今後、少なくとも二度と自分を頼って電話をしてくることは無いでしょう。
アウトプットできてこその情報
上記は僕の体験談なのですが、同業種の方は経験があるのではないでしょうか(僕が使えないだけ?)こういった体験をすると、普段どれだけの情報を集めていたとしても、
適した場面にうまく「利用」できなければ意味がないということをひしひしと感じます。
ただそれに関する情報が載っているURLを伝えるだけなら、Google先生のほうがよほど優秀です。
たとえ関連する知識があったとしても、それをうまく伝えられなければ依頼主の要望に応えることはできません。
これからのことから、自分が周囲から頼られる…つまり需要のある存在でいたいと願うのであれば、
普段から情報を集め、それを自分なりに処理して知識とし、さらにアウトプットすることのできる力が必要だといえそうです。
情報、そしてそれを扱うあなたは、
集めているだけなら趣味。
いくら知っていても、知っているだけなら自己満足。
アウトプット出来るようになってこそ初めて、人から価値を認められた「需要のある存在」でいられると思うのです。
